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〒730-0036 広島県広島市中区袋町6-36(BOX45)
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太田川河口では干潟が現れる程に土砂の堆積が進み広島デルタが形成される
戦国時代以降治世が安定し広島築城を契機に地勢が広がり経済文化軍事拠点に
山陽道(昔:西国道)の中継点として発展、江戸時代人口7万人が百万都市に
いつも常緑樹に、春はさくら、秋のもみじ



明治維新後も干拓事業は進められましが、反面、広島内陸部から全国へ、全国からの広島へ大量の物品を運送が頻繁となり、干拓で海岸線は浅瀬が多く、沖合から小型の船に荷物の積み替えなどで運送が窮することになりました。都市の海上交通の支える大型船の港、陸上輸送、鉄道輸送、運送事業の整備とともに城下町拡張から都市開発が始まりました。そして、広島は軍都へ、原爆投下、終戦、復興の長い道のりを経て、平和を願う都市となりました。

城郭
毛利輝元は城を造る場所を求めて地元武将の案内で3つの山に登りました。三立山、双葉山、己斐山
市内から気軽に行ける散歩コースで市内が一望できます。名は城地に見立てたことからのようです
城郭とは城を含む敷地です。初代毛利輝元の城郭は全て堀で囲まれて、それ以外は城下町です
城郭の北側の城北川はよく大雨で氾濫していました。城北川を堰き止め堀に造り変え堀にて北の城郭を拡げました。さらに、西の本川を外堀に見立てました
浅野の時代は、毛利の時代から続いていた広島湾への干拓事業を続けて城下が広がり、川舟による運搬が盛んになり、商業の都市へと発展しました
浅野の初代藩主は浅野長晟。武士と領民が守るべき「郡中法度」を定め、行政に長けた側近を起用し税制整備など経済に明るい殿様だったとのことです
城門
約350年間存続していましたが1945年原爆被爆により焼失しました。1991年に復元されました。広島城の入口、二の丸への正面玄関です
原爆被爆により焼失。二の丸から本丸への入口でですが、表御門と同じく櫓門で防御的な門です
本丸への敵侵入は中御門の他は裏御門です。同じく櫓門でしたが両側櫓台同士を結ぶ上部に渡櫓があったとされております
櫓
平櫓は表御門の脇にあって門の出入りを監視する役割を果たしています。そこには「矢狭間」「鉄砲狭間」が相互にあります
平櫓が長くなったものが多聞櫓で、本来土塀あるところを長い櫓にすることで防御性を高める目的で造られました
太鼓櫓は特殊な櫓で全国のどのお城にもあったようです。時報のための櫓で太鼓が置かれており、門の開閉などを太鼓や鐘で知らせたようです
二の丸
二の丸の「馬だし」の機能の一つに馬屋の跡があります
二の丸の「馬だし」の機能の一つに番所の跡があります
二の丸の「馬だし」の機能の一つに井戸の跡があります
中御門
中御門の跡、本丸と二の丸をつなぐ、本丸の入り口にあたる門です。
中御門の石垣には、原子爆弾で焼けてひび割れた石垣があります
桝形の内側の石垣は城内最大の「鏡石」があります
本丸
本丸
本丸
本丸
大本営跡
大本営跡
皇太后座所
桜の池跡
天守閣
旧天守閣
復元前の天守閣
復元後の天守閣
石垣
福島正則が広島城の無断修復を幕府にとがめられ、取り壊した石垣の跡と考えられています
広島城内の石垣については企画展が開かれている程、石垣の背景にひそむ歴史があるそうです
福島正則の時代に築かれたものと考えられいくつかの石には様々な「刻印」が見られます。何を示すかは謎ののようです
被爆樹木
マルバヤナギ
ユーカリ
クロガネモチ
中国軍管
中国軍管区
中国軍管区
中国軍管区
階段を登ると広島城天守閣内の展示の入口です。受付を済ませてから入城ください。この日は11月3日文化の日
2008年に広島城三の丸跡の井戸から目・耳・牙・鰭など部分的に金箔を押した鯱瓦がほとんど完全な形で出土
第二層には常設展示の「広島城下絵屏風(複製)」が六曲二隻あり、337人18匹の動物が描かれているそうです
かご
鎧
刀
冑
企画展
360度広島市内の様子を見渡せます。第一層でご覧いただいた広島城郭を思い浮かべてご覧ください
「広島城の石垣」
「オススメの城」
「広島城下のくらし拝見」
「広島城メモリアルデー」
「お月見ナイトミュージアムin広島城」
「広島城アカデミック講座」